一般財団法人 招鶴亭文庫|所蔵資料紹介

「三国一印売附覚」 「三国一印仕切目録覚」

中埜又左衛門家では、増倉屋三六の名前で酒造りを行っていました。江戸に大量の酒を販売し、江戸下り酒問屋との酒取引に関する史料が残されています。

ここに紹介する「三国一印売附覚」「三国一印仕切目録覚」もその一つであり、江戸下り酒問屋の尼屋甚四郎との酒取引の実態が明らかになります。

「三国一印売附覚」「三国一印仕切目録覚」

▲ 三国一印仕切目録覚 1860年(万延元年)

「三国一印売附覚」は、1860年(万延元年)10月、尼屋甚四郎が増倉屋三六に三国一印の酒代金を提示した史料です。7月20日と28日に、半田の船がそれぞれ酒5駄ずつ計10駄を尼屋に運びました。1駄は2樽なので、この場合は酒20樽となり、その代金は金21両でした。

「三国一印仕切目録覚」は、同年12月に尼屋から増倉屋から出された取引完了を示す史料です。酒の代金21両から運賃・心付・蔵敷口銭が差し引かれ、最終的には金18両2分と銀9分が尼屋から増倉屋に支払われることになりました。運賃は「三国一印売附覚」に記された2艘の船の船頭に渡されました。心付とは心遣いの礼金のことです。蔵敷は倉庫での保管料、口銭は手数料ですが、実際には船から蔵に運び入れるための人足賃が大部分だと思われます。このような必要経費はすべて増倉屋の負担でした。

しかし、実際には9月12日、金15両が尼屋から増倉屋に現金で送られていました。「売附覚」で代金を提示する前に、尼屋は代金が15両を下回らないことを見越して増倉屋への支払いを始めたのです。最終的には、この15両と現金輸送費が差し引かれた金3両1分と銀9匁4分3厘が現金で増倉屋へ送られました。

史料本文の最後に、「右之仕切残金銀、此度飛脚へ為差登相渡、此表無出入相済申処仍而如件」と記されています。「為差登」とは現金輸送を意味する言葉で、「為登」と記されることもありました。手形で処理する「為替」を使って、代金決済を行うこともありました。

「三国一印仕切目録覚」によって、酒10駄の取引がすべてが完了したことになります。増倉屋が尼屋の代金設定に不満がある場合は、「売附覚」が出された時点で、異議を唱えることができました。しかし、増倉屋と江戸下り酒問屋の力関係は、圧倒的に後者の方が強く、江戸下り酒問屋の意向で取引が進められました。

また、尼屋を含めてすべての江戸下り酒問屋には、1年間に扱う酒の量が決められていました。そのため、江戸下り酒問屋からの注文が、酒の取引のスタートとなりました。

増倉屋は、尼屋甚四郎ほか、中井新右衛門や鹿島屋利右衛門などの江戸下り酒問屋との取引がありました。酒の銘柄も、「岸の松」「猿若街」「魚河岸」「万代」などがあり、取引相手によって注文の銘柄も異なりました。今回紹介した「売附覚」「仕切目録」のような文書は、それぞれの問屋と取引ごとに作成されており、増倉屋の江戸下り酒問屋との取引の様子を窺い知ることができます。

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