一般財団法人 招鶴亭文庫|所蔵資料紹介

尾張藩の御蔵酒に関する史料

下の写真の史料は、尾張藩市ヶ谷御勘定所から江戸の酒問屋の行事に出された御蔵酒政策に関するものです。
いっしょに伝来したほかの中埜家文書から史料の作成年代は1822年(文政5年)であることがわかります。市ヶ谷勘定所とは江戸の市ヶ谷(東京都新宿区)にあった財政や経済にかかわることを扱う尾張藩の役所です。

尾張藩の御蔵酒に関する史料

 

尾張藩領内の酒造家は各自で江戸へ酒を積み送り、販売していました。そのため御年貢酒とそれ以外の酒が入り交じり、混乱が生じていました。  

そこで御年貢酒の取扱い方を改め、これからは御蔵酒として扱うことにしました。御蔵酒はすべて知多郡横須賀町方(東海市)の村瀬佐右衛門から、江戸南新堀二丁目(東京都中央区)で酒問屋を営む伊坂市右衛門に送ることにしました。藩は村瀬佐右衛門を御蔵元に、伊坂市右衛門を御蔵酒売捌方支配に命じました。

半田の酒荷物はこれまで通り、半田で船に積み込まれましたが、名目上は村瀬佐右衛門から出されたことにしたものと思われます。江戸では伊坂市右衛門が、御蔵酒を各酒問屋に分配しました。販売された御蔵酒の代金の一部が、市ヶ谷勘定所に上納されました。
この文書は、御蔵酒政策を行うことを江戸酒問屋に伝えることを目的としています。中埜家文書には、御蔵酒に関する一連の文書があり、より詳しい内容を理解することができます。

尾張藩では、藩領内の産物を御蔵物と称し、生産・販売に対し、保護・奨励を行いました。御蔵物には瀬戸物や岐阜縮緬などがあり、酒の場合は「御蔵酒」とよばれました。御蔵酒は江戸積み尾張酒が対象とされ、そのほとんどが知多酒でした。尾張藩は、尾張から江戸への流通ルートの統制をはかりました。尾張の村瀬佐右衛門と江戸の伊坂市右衛門がそれぞれの窓口になり、それ以外の流通は認めませんでした。そのため藩は伊坂市右衛門に対して、難船処理・変酒の取扱いなど詳細に規定しました。

伊坂市右衛門は御蔵酒が江戸に到着してから50日目に当時の相場で、各酒問屋からの御蔵酒代金を取り立てました。その翌日、代金の一部が尾張藩への上納金となり、江戸両替商の竹原文右衛門に渡され、竹原からの預り書が尾張藩に届けられました。江戸の尾張藩邸での経費は、尾張から送金しなければなりません。御蔵酒政策によって江戸で資金を確保できたことで、尾張からの送金分を減らすことができました。  

藩は村瀬佐右衛門に対して、御蔵酒を10万樽受け入れるように指示を出しています。18世紀後半には、江戸積み尾張酒が10万樽に達した年もありましたが、前年の1821年(文政4年)の尾張の江戸積み酒は、約5万6千樽でした。

尾張藩は御蔵酒政策を機に、尾張酒(知多酒)のブランド力を高め、江戸での販売量の増加を目指しました。江戸積み尾張酒の売り上げが伸びれば、伸びるほど藩に上納金が入る藩にとっても都合のよいシステムでした。

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