| 頭分入札留中埜家文書のなかに、「頭分入札留」という史料があります。この史料は、1854年(嘉永7年)9月(同年11月安政に改元)、中野又左衛門が下半田村の庄屋を引き継いだ時から作成されはじめました。 表題に付けられた「頭分」とは頭百姓のことです。村の政治は頭百姓が中心に行い、そのなかから、村の代表者である庄屋が選出されました。下半田村では、当時16名の頭百姓がいました。 頭百姓は固定された家が勤めるのではなく、その時々に経済力を持った人々が選ばれました。中野又左衛門がいつごろ頭百姓に任命されたかはわかりませんが、1830年代には、村の有力者になっていたことと思われます。 また、「入札」の札とは、賛成・反対の札のことです。つまり、村の有力者たちが集まり、村の問題を賛成・反対の多数決で判断したことがわかります。 その内容のいくつかを紹介します。
江戸時代の農村では、村の代表者である庄屋が中心となり、村民全員が納得するまで、話し合いを行い、村の問題を解決したといわれています。ただし、話し合いを円滑に進めるために、根回しなどが行われました。このような習慣は現在も残り、「日本的な村社会」と非難されることにもつながっています。 多数決による意志決定は、日本的な伝統ではなく、明治以降に西洋的な考えが浸透していくなかで、行われるようになったのではないか、と考えられていました。しかし、この史料によりすでに江戸時代の終わりころには、村の問題が多数決で判断されていたことがわかります。ただし、すべて多数決で機械的に処理するのではありません。上記4の内容に示されている条件付き賛成や、判断を急がず、会合の機会を提案する継続審議といった柔軟な対応もみられます。じっくりと話し合いを持ちながら、合理的な多数決による判断を行う、そこに村の運営の特徴がみられます。 |