一般財団法人 招鶴亭文庫|所蔵資料紹介

乍恐奉願上 御新田場之御事

中埜家文書のなかに、1694年(元禄7年)半田村から、尾張藩の郡奉行である服部重郎兵衛に新田開発を願い出た史料があります。のちに山方新田とよばれる場所です。半田運河の東側一帯、現在の市役所・郵便局の敷地を含む35町歩(約35ヘクタール)です。

服部はこの願書に、村側から差し出された新田開発の費用である金300両を受け取ったことを記し、村に願書を返しました。そのため、この願書が半田に残されています。

この願書によると、開発の理由は2つです。ひとつは湊の整備です。小船の出入りが不自由で、商船の入船が減り、村が衰退しているといいます。詳しいことはわかりませんが、新田を築くことによって運河ができ、船の往来がスムーズに行えるようになったと思われます。

ふたつめは、村人たちの御救いとしてです。御救いとは、村人たちの生活を助けるという意味です。新田開発は、大がかりな土木工事のため、雇用の確保につながります。また、新田が造成されると、その耕作者も必要となります。工事という一過性の事業だけでなく、その後の継続的な農業経営も考えての願い出だったと思われます。

▲ 乍恐奉願上 御新田場之御事 1694年(元禄7年)

新田を造成する際に問題となるのは、水の確保です。水利権争いにならないように、水源を決めておく必要がありました。

そこで、いろいろと検討・調整した結果、新田から直線距離で約6キロメートル離れた場所に雨池(ため池)を造ることにしました。岩滑村(現半田市)の西のはずれ、植村・大古根村(現阿久比町)、久米村(現常滑市)の境です。現在の半田池です。半田池の築造の際に、半田村は岩滑村に対し、金10両を支払っています。また、半田池の水利権を岩滑村・植村・大古根村にも与えています。半田池から山方新田までは、矢勝川と十ヶ川を使用したため、別の水路を掘る必要はありませんでした。

その後の記録をみると、新田開発は、予想以上の経費がかかりました。半田村の小栗七左衛門と小栗三郎左衛門が多額の資金援助をしました。完成までにかかった費用は金3,400両でした。

しかし、1705年(宝永2年)の風水害や、1707年(宝永4年)の東南海地震により、新田堤防は壊滅的な被害を受けました。この両年の被害のみで、新田開発と同じ程度の修築費がかかっています。新田を維持していく大変さが伝わります。

それでも、山方新田に隣接する場所は、その後も新田として開発されていきました。1821年(文政4年)には亀洲新田が開発され、1882年(明治15年)には、康衛新田が完成しました。3つの新田合わせて80町を超える新田が誕生しました(知多郡半田村山方新田康衛新田亀洲新田全図を参照)。

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