招鶴亭文庫には、 1874年(明治7年)11月19日、中埜又左衛門が灯台建築願を愛知県に提出して以来、1876年(明治9年)1月のガス灯建設届が出されるまで、灯台建設にかかわるさまざまな資料が残されています。今回紹介する資料は、1875年(明治8年)4月23日付、酢屋又左衛門宛中井半三郎書状です。酢屋又左衛門は、半田の酢醸造家中埜又左衛門、中井半三郎は、東京で中埜又左衛門の酢を一手に扱う問屋でした。
1875年(明治8年)3月、工部省から愛知県に対し、半田村の灯台建築について、疑問が出されました。その疑問とは、仕様書や図面からでは西洋型か日本型かの判断がつかないことや、光線の射程距離が明らかでないことでした。
この指摘に対して、中埜又左衛門に相談された中井半三郎からの返答が今回紹介する書状です。書状には、中井半三郎が工部省の役人から直接聞いた内容が示されています。まず、灯台は一等から三等に分かれ、光線の届く距離が一等が30里、二等が20里、三等が10里と定められていること、一等用機材は15,000円ほどで、三等のものでも3,000円ほどで、灯台守は一等で10人、三等でも4人が必要で、維持管理費を含めると莫大な経費がかかることが、工部省の役人からの話として記されています。
▲ 酢屋又左衛門宛 中井半三郎書状 1875年(明治8年)4月23日
その結果、中井半三郎は、灯台にかかるすべての経費を自費でまかなうことは不可能であり、半田港で必要な光線の射程が1里程度なのであれば、中埜又左衛門に灯台建設を断念するように伝えています。そのうえで、中井半三郎は、「御神灯」という名目であれば、工部省に届けを出す必要がなくなり、愛知県の許可のみで済むことをアドバイスしています。一般的な照明灯でも5、6里ほど照射できる機器もあると伝えています。中井半三郎は、神社や村の道筋にある常夜灯をイメージし、そこに蠟燭や油皿ではなく、もう少し遠くまで照射できるランプなどの機器を備えればよいと考えたのではないでしょうか。
1875年(明治8年)7月、中埜又左衛門は、灯台建設には莫大な費用がかかること、光線の届く距離は1里内外でよいことから、ひとまず灯台建設を見合わせることを愛知県に伝えました。翌年1月、中埜又左衛門は、あらためて愛知県にガス灯建設に変更した届を提出し、これが「三平灯台」の設置につながったと思われます。
中埜又左衛門が、愛知県に伝えた灯台建設断念の内容は、中井半三郎のアドバイス通りです。中埜又左衛門にとって、中井半三郎は商売上のパートナーであると同時に、良き相談相手でした。
※ 海上1里は約1852メートル