一般財団法人 招鶴亭文庫|所蔵資料紹介

酢屋店卸帳

「酢屋店卸帳」の作成

「酢屋店卸帳」は、中埜家の創業期の経営帳簿として、酢造りがわかる貴重な史料です。作成者の酢屋勘治郎は中埜家の酢屋としての名前です。酒屋は中埜又左衛門として、酢屋は酢屋勘治郎として経営を行っていました。中埜家では、1811年(文化8年)に盛田久左衛門家の太蔵を養子として迎え、次世代への準備が始められました。「酢屋店卸帳」は、1810年(文化7年)から1837年(天保8年)までの記載があり、毎年の収支がわかります。翌年からは、毎年1冊ずつ作成される「年内勘定帳」に変わっていきました。

酢屋店卸帳

「酢屋店卸帳」は1810年(文化7年)からの酢造りの様子を伝えてくれます。本格的な酢造りの開始にあたり、この帳簿が作成され始めました。1810年(文化7年)12月に伴吉を雇い、2人の蔵働きとともに翌年の7月まで酢造りを行ったものと思われます。翌年2月が閏月(うるうづき)にあたるため、9か月(270日)の期間でした。現在は4年に1度の閏年に2月29日を設けますが、江戸時代は閏月の1か月を加えることで時間の調整を図りました。9か月間の伴吉の給金は金1両1分です。また、蔵働き2人には、飯米として1日1升分の米が支給されました。

「酢屋店卸帳」にみる 酢造りのはじまり

1810年(文化7年)12月から翌年8月までの酢の生産と販売についてみることにします。まず酒粕(酢元粕)を8968貫余(約3・4トン)を購入しました。その代金は79両程でした。先ほど記した伴吉の給金や飯米などの人件費は5両程でした。酢を販売するためには容器としての樽が必要となります。使用済の空樽を解体した状態で購入し樽屋が組み立てました。樽は蓋・底・側などのいくつかの部材に分かれ、側は十数枚の板を、竹のたがでまとめました。885樽分の空樽は28両程であり、樽屋の手間賃は1両程でした。そのほかに、仕込桶や莚(むしろ)などの諸雑費があり、全体として117両程の支出でした。  
  酢の売上は金101両程、酢粕(下粕)の売上は28両程でした。酢粕はおもに肥料として知多半島・三河の農村に販売されたものと考えられます。酢粕はアルコール分が抜けているため酒粕より良質な肥料でした。結果的に酢粕は酒粕より高く売れる商品になりました。  
  さらに、在庫は資産と考える発想があり、収入分として計上されています。在庫の酢30石(金6両分)を種酢として残しました。前醸造分の酢を活かして造ることで、安定した質の良い酢造りが継続できます。在庫の空樽などを加え、全体として138両程の収入となりました。その結果21両程の利益(徳金)を得ることができました。

2代中埜又左衛門と角四郎

次期の酢造りは、1811年(文化8年)12月から翌年11月までの12か月でした。酒粕の購入額は前年比約2倍の184両程に増えました。醸造期間は長くなりましたが、それ以上の増産体制でした。伴吉を源六・源七の2人に増やし、蔵働きは3人としました。その結果、酢の売上は250両程に伸ばし、利益金も57両程に倍増しました。  
  その後、2年ほどは変わらず酢造りを継続し、毎年金40両から50両ほどの利益金を得ることができました。1814年(文化11年)には角四郎を総責任者とし、和助・徳蔵の2人が酢造りを行いました。1年間の給金は角四郎が5両、和助が2両1分、徳助が2両でした。角四郎は、太蔵の妻いわの縁者といわれ、1825年(文政8年)までの10年間、酢屋を任されました。  
  ちなみに、角四郎の給金は1821年(文政4年)ごろから10両程になりました。最後の1825年(文政8年)は御礼奉公として給料はありませんでした。しかし、中埜家は角四郎の退職にあたり首尾金として10両を渡しました。角四郎が無給の御礼奉公をしたこととともに、中埜家が給金に代わる首尾金を用意したことも「酢屋店卸帳」は伝えてくれます。

経営帳簿としての 「酢屋店卸帳」

現在の損益計算書・貸借対照表形式の複式帳簿の地方への浸透は、19世紀に入ってからといわれています。「酢屋店卸帳」も複式の決算帳簿です。大福帳・金銀出入帳などの各帳簿からの金額を受けて、「酢屋店卸帳」が作成されるのは、1815年(文化12年)11月改めからです。酢屋に角四郎が加入する時期です。さらに、1818年(文政元年)には、貸借対照表形式の「店卸差引」と損益計算書形式の「売買惣差引」が作成され、帳簿の整備がみられます。このことにより、酢造りの実態は見えにくくなりましたが、各帳簿からの金額が集計され、売上(惣売高)・出費(惣買〆高)とその差引の利益金が一目でわかるようになりました。  
  1825年(文政8年)の売上は1000両を超え、利益金は198両程、1833年(天保4年)の売上は2000両を超え、利益金は276両程、1837年(天保8年)の売上は3591両程、利益金は716両程となりました。酢屋は順調に売上を伸ばし、着実に利益を上げました。  
  「酢屋店卸帳」の記載時期の酢屋は、独立採算制を取っておらず、毎年の収益を酒屋(本家)に渡し、1年の運転資金を酒屋から借りています。それは、収益が資産として次年度に繰り越されていないことから明らかになります。この時期の中埜家の経営はあくまでも酒屋が主であり、酢屋は酒屋の一部という位置づけでした。


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