一般財団法人 招鶴亭文庫

 
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2009:02/21 - 03/03
絵図と古文書にみる半田のむかし


一般財団法人招鶴亭文庫が所蔵する中埜家文書には、さまざまな古文書や絵図などが含まれています。今回の企画展では、招鶴亭文庫の所在地である「半田」に焦点をあてて、招鶴亭文庫の所蔵資料を中心に、半田の成り立ちや歩みを示す資料が展示されました。

一般財団法人招鶴亭文庫企画展 半田文化史玉手箱 絵図と古文書にみる半田のむかし

江戸時代、現在の半田市域には、亀崎・有脇・乙川・岩滑・半田・成岩の6つの村がありました。どの村も比較的広く、村高(見込まれる農業生産高)の大きな村でした。1800年ごろで、6ヶ村合わせて1万7000人弱の人が暮らしていました。

江戸時代の村の様子を視覚的に示すのが村絵図です。村絵図の作成目的は境界の確定や土木工事などさまざまです。今回展示した村絵図は、尾張藩が各村の状況を把握するために提出させた、1841年(天保12年)作成の村絵図です。土地利用の実態が色分けして示され、家屋や石垣などの建造物が描かれています。山や家の描き方なども地図ごとに異なり、個性的な出来上がりです。

明治時代以降、西洋的な図法が採り入れられると、地図は正確で画一的なものになります。その一方で、鳥が上空から見たような視角で描いた鳥瞰図のような独創的な絵図もつくられました。1938年(昭和13年)の半田市鳥瞰図は、県内6番目の市として前年に半田市が誕生したのを記念して作成されました。公共施設や商店・工場などが書き込まれ、町の賑わいを伝えてくれます。

江戸時代の半田村

江戸時代の半田村は、村としては一つでしたが、上半田と下半田の集落に分かれていました。上半田の集落の中心は、現在のJR武豊線の西側でした。摂取院や順正寺などがあり、紺屋海道が通り、入水神社(現在の住吉神社)が集落の北西のはずれになります。下半田の集落の中心はJR武豊線の東側にあたります。業葉神社・雲観寺などがあり、源兵衛橋周辺の運河地帯も下半田です。

下半田の集落の中心は、1600年ころまでは海であったといわれています。上半田には、「前崎」「堀崎」とよばれる字名が残されています。「崎」は海に突き出た岬を意味しており、海岸線が現在よりずいぶんと西側に入っていたことがわかります。

1700年ころに、山方新田が開発され、35 haの埋め立て地ができあがりました。現在の半田市役所あたりです。衣浦湾は遠浅の海岸で埋め立てには適していましたが、水の確保が大きな問題でした。そこで半島の丘陵部に雨池(溜池)をつくり、そこから水を引きました。開発地と近い場所で水が確保できれば問題ありませんが、ほとんどの場合は不可能です。雨池が半島の内陸部に造られるようになりました。

半田村海岸部新田絵図
▲「半田村海岸部新田絵図」
諸願達之記御役所懸覚
▲「諸願達之記御役所懸覚」
 

山方新田への取水のために造られた半田池は、新田の北西、直線距離にして約6km離れた場所にあります。このように、半田村は、東へ東へと埋め立てが進んでいきました。開発が進み、土地が拡大することによって、村高(見込まれる農業生産高)も増えました。村高は、1650年ころから、1800年にかけての約150年間で、約1.5倍となりました。35 haの山方新田は、上半田・下半田の両方に等分に分けられました。

また、1670年ころの半田村の人口は約1850人、1800年ころには約2500人となりました。わずか約130年ほどで、500人以上が増えたことになります。生産力が上昇し、人口増加も著しいものがあります。

さらに、1700年ころの下半田では、農業と海運業がさかんでした。おもに伊勢湾・三河湾の交易や、三河の荷物を江戸に運んだりしていました。1800年ころの下半田は、廻船による海運力を活かし、江戸向けの製品をつくる、醸造業がさかんな産業の町へと変貌を遂げていました。

下半田の村の記録をみると、海運業や醸造業に関わる記事が多くみられます。村にある廻船数の藩への報告や飢饉時には酒造に用いる米の量を制限した藩からの触などです。

新田地帯であった山方新田も、おそくとも、江戸時代の末ころまでには、十ヶ川(半田運河)沿いを中心に醸造蔵が建ち並ぶようになりました。まさに、江戸時代の臨海工業地帯でした。

産業の町・半田

明治時代に入ると、江戸時代の醸造業や海運業で育ててきた力を背景に、半田では新しい産業が展開しました。急速に進む西洋化のなかで、新しい時代への対応が望まれました。江戸時代からの酒づくり・酢づくりの醸造蔵は近代工場へと移り変わり、機械化も進みました。また、1890年代は味噌醸造業が、大きく成長し、半田にはいくつも味噌工場が誕生しました。

1900年ころ、半田には二つの大きな工場があいついで誕生しました。ビール工場と紡績工場です。いずれも集落から離れた田畑を切り開いてできました。

1896年(明治29年)、資本金60万円の丸三麦酒株式会社が設立され、社長に中埜又左衛門が就任しました。1898年(明治31年)、上半田の集落の北端、入水神社(現在の住吉神社)の東側に、一部5階建て赤レンガ造りの工場を建設しました。建築費は14万5千円という当時としては破格の値段でした。

絵葉書:カブトビール株式会社半田工場
▲絵葉書:カブトビール株式会社半田工場

工場の設計は妻木頼黄が行いました。妻木は大阪麦酒吹田村醸造所の建設を手がけるなど、実績のある建築家でした。また、この新工場では、醸造技師をはじめ、最新式ビール醸造機・大麦・ホップなど一切の技術・道具・原材料をドイツに求めるなど、ドイツ流ビールの味にこだわりました。当初、「丸三ビール」として売り出していた銘柄を、日清戦争勝利を契機に力強さをアピールした「カブトビール」に変更しました。カブトをモチーフにしたマークが人々の目を引きました。

一方、1899年(明治32年)、小栗冨治郎を取締役社長とする知多紡績株式会社が誕生しました。当時の最先端技術を持つイギリスから精紡機を輸入し、紡錘1万5千個による紡績工場が建てられました。この二つの巨大工場には、知多の企業家たちの産業発展への思いが込められていました。半田のビール生産は1885年ころから、すでにはじまっており、実験段階から本格生産を経て、10年以上の年月をかけて、ようやく巨大ビール工場の建設を実現しました。

 

また、木綿業のさかんであった知多半島でしたが、糸車を手作業で廻す紡績では、生産力が上がりません。1896年(明治29年)、知多半島で蒸気による機械紡績を行う気運が高まりました。知多半島の各地域の有力者が名乗りを挙げましたが、最終的には半田に建設することに決まりました。

このようにして実現した新会社でしたが、企業買収・合併のなかで長くは続きませんでした。丸三麦酒株式会社は、1906年(明治39年)、東京の代表的企業家である根津嘉一郎に買収され、日本第一麦酒株式会社となりました。また、知多紡績株式会社は、1907年(明治40年)、三重紡績と合併し、その後、東洋紡績株式会社となりました。

カブトビール工場の建物は一部取り壊しましたが、かなりの部分が現存しています。知多紡績の建物は現存しておらず、現在の半田郵便局・半田市役所一帯が工場にあたります。

丸三麦酒株式会社醸造工場棟札
▲丸三麦酒株式会社醸造工場棟札
右:表、左:裏

半田のにぎわい

江戸時代から醸造業や海運業で栄えてきた半田に、明治時代になると新しい要素が加わります。1878年(明治11年)には、地方行政制度の改正にともない、知多郡役所が設置され、半田は知多半島の行政の中心に位置づけられました。最初の郡役所は現在の半田商工会議所付近にありましたが、1884年(明治17年)前明山(前之山、現在の本町6丁目付近)に移転しました。

さらに、武豊線が1886年(明治19年)に開通し、停車場がつくられました。知多鉄道(現在の名古屋鉄道)の開通(成岩まで)は1931年(昭和6年)のことです。

1901年(明治34年)創業の中埜銀行をはじめ、銀行や商社・商店も増えました。明治初期には知多半島内の教科書販売を一手に扱った同盟書林や新聞社・新聞販売店などメディア関係の会社・商店もできました。半田は知多半島の経済・文化の中心地にも発展しました。その結果、工場や会社で働く人、鉄道を利用する人などで、半田の町はいっそう賑わいをみせるようになりました。

人が集まるようになるとできるのが繁華街です。博物館「酢の里」 の前から西へ伸びる新川と交差する県道衣浦西港線に架かる橋が思案橋です。この橋の北側の県道が銀座通りで、この一帯は大正末から昭和初期には100軒以上の店が集まる繁華街でした。「もう一軒行こうか、家へ帰ろうか」と悩んだので「思案橋」と名付けられたといわれます。

「三扇楼」とよばれた福扇楼ほか2軒の高級料亭もあれば、庶民が立ち寄れる飲み屋もあり、うなぎ屋もあれば洋食屋もありました。東京から流行したカフェーも1920年代には半田に登場しました。カフェーは、流行の音楽を流し、ソフトドリンクとアルコール類、軽食を若い女性が給仕してくれる都会の雰囲気を味わえる飲食店でした。

絵葉書:半田本町通り
▲絵葉書:半田本町通り
川の屋菓子店のコーピーカップと皿
▲川の屋菓子店のコーピーカップと皿
 

食パン・菓子パンやケーキ、チョコレートやキャラメルなどの洋菓子類を扱う店もありました。洋酒やケチャップ、バターなどの洋食の材料や肉類を販売する小売店もありました。八百屋でも「速成珍野菜」を扱う店もありました。知多半島内では半田でしか買えなかった商品もたくさんあったことでしょう。

季節に応じた楽しみもありました。阿久比川の東雲橋付近の堤防は、「東雲桜」とよばれる桜並木で知られていました。花見の季節には、川にはボートが浮かび、露店も並び、多くの人で賑わいました。楽しむだけではなく、半田の人たちは「東雲桜保勝会」をつくり、この桜の維持に努めていました。

東雲桜はなくなりましたが、中埜銀行の建物は、ミツカングループ本社中央研究所として、博物館「酢の里」 の西側に残っています。そのほかにも大正から昭和初期の半田の賑わいの名残は、銀座通りやその周辺で今でも目にすることができます。