一般財団法人 招鶴亭文庫

 
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2013:02/20 - 03/03
醸しの半島、知多 其ノ弐
受け継がれた郷土の味
味噌 溜・醬油 味醂



衣浦湾の西と東、知多半島と西三河では多様な醸造業が展開してきました。小麦を使わず大豆と塩だけで造る豆味噌、豆味噌造りの過程でにじみ出た液体を取り出した溜、小麦を主原料とする白醤油などは、この地域独自の醸造品です。また、酒粕から造られる味醂(みりん)も、衣浦湾沿岸の酒造業と結びついた醸造品です。今回はこれらの醸造品に着目して、醸造業の歴史や日本人の食生活に及ぼした影響をひもときました。併せて、企画展の内容を特集した機関誌を発行し来場者に配布しました。
なお、今回の企画展には2,100人余りが来場しました。

企画展ポスター


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半田文化史玉手箱 「醸しの半島、知多 其ノ弐 受け継がれた郷土の味 味噌 溜・醬油 味醂」

味噌・溜・醤油は日本を代表する調味料です。味噌も醤油もルーツは古代の「醤」です。「醤」は大豆を主原料としたどろっとした発酵調味料です。そこからそれぞれ独自に発展して、現在のような醤油や味噌が造られるようになりました。しかし、「手前味噌」の言葉があるとおり、それぞれの家で自家消費用に味噌や醤油を造るのが一般的でした。

みりんは16世紀ごろに中国からもたらされた甘い酒「蜜淋」がルーツとされます。みりんは、日本に入ってきた当初は、甘い飲み物として女性にも人気でした。

味噌・醤油・みりんの歴史が大きく転換したのは江戸時代、とくに18世紀以降です。各地に醸造家が誕生して大量生産が始まり、商品として市場に出回るようになりました。みりんが調味料として使われるようになり、味噌・醤油・みりんは日本食に欠かせない調味料と位置づけられるようになりました。


▲ 牛による運搬風景(合名会社中定商店所蔵)

尾張・三河の味噌・溜

尾張・三河で造られる味噌は、米や麦を使わず大豆だけを穀物原料とする豆味噌です。「醤」から発展した味噌の原形ともいえるでしょう。大豆を蒸してつぶして整形した味噌玉に麹菌を付け、麹菌が繁殖したところで塩水と一緒に桶に仕込み、そのまま1年以上熟成させます。熟成後、しみ出してきた液体が溜、溜を分離した残りが味噌となります。

知多半島での味噌・溜醸造業は、17世紀後半大野(常滑市)の三河屋(萩原)宗平に始まるといわれています。18世紀に入ると小鈴谷(常滑市)の盛田久左衛門も味噌造りを始めました。岡崎の八丁味噌もその創業は17世紀にさかのぼるといわれています。

味噌・醤油市場の拡大にともない、衣浦湾沿岸でも19世紀以降醸造家がしだいに増加したものと思われます。明治以降には酒造業からの転業も増え、知多半島の味噌・溜醸造家数は1920年代にピークを迎え、その数は160軒を超えました。亀崎・半田・成岩(以上、半田市)・武豊・内海(南知多町)・小鈴谷などには、数多くの味噌・溜造りの蔵が建ち並んでいました。なかには、溜生産高が5000石を超すような巨大な企業も出現しました。

衣浦湾岸で味噌・溜醸造業が発展した要因の一つは、原料調達の利便性でした。主原料である大豆は北関東・東北産、塩は地元の吉田・饗庭(西尾市)産や瀬戸内産のものが使われました。これらの原料を遠隔地から運んだのは船です。酒などを江戸に運んだ船の帰り荷物に大豆が積み込まれ、上方と関東をつなぐ船が、この地域に瀬戸内産の塩をもたらしました。味噌・溜醸造業が飛躍的に発展する明治期には、武豊港の開港場指定が追い風となり、大陸から大量の大豆が移入されました。

もう一つの発展要因は、「経営力」です。味噌・溜は商品として出荷するまで短くても1年、場合によっては数年かかります。その間、つぎ込んだ資金は回収されません。醸造家には、この1年から数年の間を乗り切るだけの経営上の体力や資金力が求められます。


▲ 「萬三商店」看板
(株式会社萬三商店所蔵)

知多半島で味噌・溜醸造業が始まった当初は名古屋・熱田を主な市場としていましたが、18世紀後半以降伊勢や江戸方面へ販路を拡大していきました。販路拡大の背景には、醸造技術の向上、道具の開発などの工夫、さらにパッケージにまで気を配る品質管理などの経営努力があったことはいうまでもありません。

知多半島の味噌・溜醸造家たちは、ライバルであると同時に同業者どうし協力しながら、味噌・溜の名産地としての地位を築いてきました。古くは、5代目三河屋宗平は新規参入者に製法を伝授し、醸造場の設計まで面倒をみたといわれています。半島内の同業者の協力体制は、醤醸組(1892年結成)、さらに知多郡味噌醤油同業組合(1901年結成)という形で結実し、味噌・溜醸造業の最盛期を迎えることになりました。


▲ 大野三河屋の商標『尾陽商工便覧』

酒からみりんへ

みりんは、現在では「味醂」ですが、かつては「味淋」と記されました。昭和初期の愛知県のみりん生産高は、京都についで2位で、全国シェアは1割ほどでした。愛知県は日本有数のみりん生産地といえます。愛知県のなかでも、大浜(碧南市)と蟹江がみりん生産の中心です。明治時代末ごろの味醂生産高は、大浜地区で約3600石、蟹江地区で約1800石でした。

本来みりんはみりん酒とよばれる飲用酒であり、正月用のお屠蘇、薬用酒として飲まれ、甘く飲みやすいため人気が高かったようです。江戸時代の初めから犬山の忍冬酒や大野(常滑市)の保命酒は有名でした。

大浜地区でみりん業が発達したのは、酒造業が発達しており、原料の酒粕が豊富にあったからでした。18世紀の三河は酒造地帯で、清酒・焼酎・みりん酒が造られ、清酒は江戸でも評判のブランド酒でした。みりん酒と清酒や焼酎と混ぜて飲む「本直し」とよばれる習慣もありました。夏場の暑気払いに飲まれていたようです。


▲ みりんラベル 八重桜(半田市立博物館所蔵)

知多半島の酒造業が発展すると、三河の清酒はそれにおされて生産が激減しました。これを機に大浜では、みりん酒を中心とした醸造業へと転換していきました。みりん酒が飲用とともに、調味料として使われはじめた18世紀後半です。醤油が一般化することにより、煮物が浸透していき、甘みのあるみりんを使った「たれ」がその味を引き立たせました。

18世紀後半創業の石川八郎右衛門家も、清酒・焼酎・みりんを醸造していました。19世紀前半創業の中野又左衛門家も創業当初は、酢のほかに清酒・焼酎を醸造するだけでなく、みりん造りも試みました。

明治時代に入ると、安価に造れるようになったアルコール度数の高い焼酎と、粳米や糯米を混ぜ、発酵させるみりんの製法が定着しました。これまでのみりんより風味が増し、食生活の多様化が進んだこともあり、みりんの需要が増加しました。

大浜では焼酎が変わっても酒粕を原料に使い続けたため、他の地域とは異なる味わいのみりんができあがりました。大浜地区では、明治時代から大正時代にかけて、多くのみりん業者が誕生し、現在にいたっています。

知多半島でもみりんが造られていました。図は、三谷村の盛田弥吉の銘柄「八重桜」のみりんのラベルです。「八重桜」は、大浜の「九重桜」を意識した銘柄です。

三谷村とは、現在の常滑市南部(大谷・小鈴谷・広目)の自治体であり、1878年(明治11年)から1884年(明治17年)の間しか存在しません。このラベルの製作年代もこの期間に限定されます。このほかにも、大谷の大岩百太郎の白みりん「東女郎」や、小鈴谷の陸井麗治郎の「ひとへ桜」などが醸造されました。白みりんとは、念入りに精白した糯米と焼酎で造るみりんのことです。


▲ 味醂小樽之覚

変わる食生活

江戸時代には、味噌・溜・醤油などの調味料だけではなく、さまざまな食材が市場に出回るようになりました。農業・漁業の生産力向上はもちろん、小松菜のような都市の消費を支える近郊野菜、海苔・漬物のような保存用の加工食品などが多く生産されました。

さらに、船を活用した全国的な流通網が整備されたことにより、日本各地で生産された食材が流通に乗り、遠隔地でも食べられるようになりました。たとえば、現在の北海道近海で水揚げされた海産物は、船で日本海の荒波を越え、大坂や京都などへ運ばれました。いまでもにしんそばは京都の名物です。尾張名産の大根も丸干大根や切干大根に加工されて、江戸神田の市場に持ち込まれました。

こうした条件のもとで生まれたのが、日本食の基礎となる「だし」です。鰹節や昆布がだしの食材の代表でしょう。江戸時代初め、鰹節は茹でた鰹を天日や熱気で乾燥させただけのものでした。18世紀後半には、徹底した天日干し、ナラ・クヌギなどの薪による薫蒸、青カビの付着など、新しい製法が取り入れられました。その結果、長期保存が可能になり、紀州や土佐・伊豆などの特産品として流通するようになりました。昆布は現在の北海道日高地方などで採れる良質のものが、日本海を経由して西日本や上方へ運ばれました。


▲ 洋和砂糖類販売所引札

これらのだしと商品化された調味料とが組み合わされて、日本食が完成しました。そば・うどんにだしのうまみ・香りと醤油・みりんの味わいは欠かせません。鰻の蒲焼きはみりんを調味料として使い、その味とつやで人気を獲得しました。季節の食材を、だしをベースにさまざまな調味料で味付けをする日本食、現在私たちが代表的な日本食と考えるそば・うどん、鰻の蒲焼き、天ぷらなどは、いずれも江戸時代後期に広まったものです。

江戸時代の庶民は1日3食、ふだんは御飯と汁、そして多少のおかずといった質素な食生活でした。しかし、結納・婚礼などの席では縁起のよい食材を使った多様な料理が供されました。

また、18世紀後半になると、都市部を中心に外食できる場も増えました。格式高い料亭から茶店や一膳飯屋、移動式の屋台まで、幅広いニーズに対応する選択肢がありました。とくに、花見や祭礼など人が集まる場所には必ずといってよいほど屋台が出て、さまざまな食べ物を販売しました。また、旅に出ればその土地の名物を食べるのも楽しみの一つでした。


▲ うなぎ中竹『尾陽商工便覧』

明治になると、欧米の食習慣が日本に入ってきました。都市には西洋料理店もできましたが、肉やパン、バターを使った料理など、すぐには普及しませんでした。しかし、人々は新旧の食習慣を融合させながら、20世紀になるころには、たとえばトンカツのような、和洋折衷の日本的な洋食がつくられるようになりました。