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研究ノート:2017

 

一般財団法人 招鶴亭文庫  研究ノート:半田の廻船と中埜又左衛門

[弁才船の拠点・下半田]

毎年4月の下半田の祭礼には、4輌の山車とともに1台の神輿が町内を廻ります。華麗な山車に目が向きがちですが、御神体が宿るのは神輿で、4輌の山車はその警固役です。

この神輿は、半田の船頭たちが村中安全や海上安全などを祈念して奉納したものです。半田の船頭たちは神輿を奉納することを思い立ち、資金調達のための「講(こう)」を1816年(文化13年)に結成しました。その経緯を記した「神輿取建講中帳」には、孝順丸彦三郎・住吉丸東作など合計26名の船頭の名前が確認できます。

半田湊は徳川家康との関係が深く、そのため通常は出港する船の右側にある澪標(みおしるべ)が特別に左側に建てられ、半田の「左棒杭(さぼうぐい)」として知られていました。湊の整備費用は幕府が賄ったといわれています。半田湊には造船ができる場所もあり、周辺には船大工や船の乗組員も数多く住んでいました。

半田を本拠地とする廻船は17世紀後半には35艘あり、大野(常滑市)に次ぐ多さでした。幕末期には24艘という記録もあり、江戸時代をとおして30艘前後であったと推測されます。とすると、神輿を奉納した26名(26艘)の船は、その当時の半田の廻船すべてに近いと考えられます。

[文化期の廻船と中埜又左衛門の荷物]

1815年(文化12年)の「大福差引帳」と1817年(文化14年)・1818年(文化15年)の「大福帳」に登場する船を抜き出すと80艘余りに及びます。表記の関係上重複する船を含む可能性を考えても、中埜又左衛門は60〜70艘程度の船と関係があったと推測されます。船の本拠地は半田だけではなく亀崎(半田市)や大足(武豊町)など知多半島各地、さらに平坂(西尾市)・高浜など衣浦湾東側にも広がっていました。

この中には小型の波不知船(いさばぶね)や川船も含まれますが、「富士宮丸」のような船名が明記される比較的大きな船と思われる船が40艘ほどあります。その中に神輿を奉納した26艘の内22艘が含まれています。その他の文書も含めて、中埜又左衛門との関係が未確認なのは26艘のうち2艘だけです。中埜又左衛門と廻船の密接な関係がうかがえます。

これらの廻船は中埜又左衛門の酢の販売先でもありました。船が買い取った酢は駿河・伊豆(以上、静岡県)や江戸周辺などで売り捌かれました。こうした船への販売金額は毎年1000両前後にもなり、酢の販売のなかでは大きな割合を占めました。酢のほかに酒などの荷物も積んで半田を出帆し、帰りには空樽や菰などの醸造用品や大豆・〆粕(しめかす)などを積んで戻ってきました。長距離輸送に従事する廻船は、醸造業だけではなく半田周辺の産業全体を支えていました。

[2艘の手船・富士宮丸]

衣浦湾岸の多くの船を利用していた中埜又左衛門ですが、自らが船に出資して所有することもありました。それが2艘の富士宮丸です。

中埜又左衛門が初めて船を手に入れたのは、1817年(文化14年)のことです。この年の大福帳には「新船玉(しんふなだま)代金)」として192両余が計上されています。船名は富士宮丸、船頭は為吉でした。富士宮丸はこの年5月には酢・酒を積んで伊豆・浦賀・江戸へ航海しました。この時の江戸への酢の販売が現在確認される最も古い江戸売りです。中埜又左衛門は江戸市場への参入のために船に出資したのかもしれません。

この富士宮丸には、1817年(文化14年)付で尾張藩から1枚の証文が与えられました。それは、尾張藩の許可なく幕府にチャーターされないことを保証したもので、尾張藩領の廻船に与えられる特権でした。

ただし、この富士宮丸は中埜又左衛門だけの所有ではなかったと思われます。1843年(天保14年)に購入した船に手を加えて新たな富士宮丸(船頭為助)が就航しました。この時の出資者は中埜又左衛門の本家・酢屋、中埜平蔵、盛田久左衛門・太助、船頭為助でした。最初の富士宮丸もこの富士宮丸と同じ顔ぶれの共同所有であったと思われます。

1826年(文政9年)からは為次郎が船頭を勤める富士宮丸が中埜又左衛門の手船に加わります。2艘の富士宮丸が中埜又左衛門の酢・酒を運ぶ主力船となり、その他の船はそれを補完する役割を果たすようになりました。

[中埜又左衛門と船との関わり]

中埜又左衛門家では1865年(慶応元年)の「定」で、別家が船を単独で所有してはならないと定めています。衣浦湾岸の醸造家たちは船を共同で所有することが一般的でした。複数の荷主の多種類の荷物を積む場合には、共同所有の方が都合がよかったのでしょう。

また、船の航海は難破の危険と隣り合わせです。2艘の富士宮丸も何度か海難事故を起こしています。神輿奉納の講にも名前のあった孝順丸(船頭彦三郎)は、講結成の前年の1815年(文化12年)江戸霊岸島(東京都中央区)の千代倉屋治郎兵衛(鳴海下郷家の江戸出店)行の酒・酢を積んで航行中、下田沖で難破しています。海難事故のショックは大きく、中埜又左衛門は1827〜29年(文政10〜12年)に帳簿作成を怠った理由の一つに新造した富士宮丸の難破をあげています。船の共同所有には海難時の危険分散の意味もありました。

「大福帳」(文化14年) 
▲ 「大福帳」(文化14年) 
江戸に酢を運んだことが確認できる最初の史料

中埜又左衛門と半田の船の関係は、荷主と輸送船、生産者と荷物の販売相手という関係にはとどまりません。1819年(文政2年)鶴宮丸に150両を貸し付けたように、船の購入・作事やその他の経費を融通したり、船頭に年貢未納分に充当する金銭を貸したりすることもありました。船の運航にあたっても、船頭が帰りの荷物を購入するための資金を前借りすることもしばしばでした。

「船玉売渡書附事」
▲ 「船玉売渡書附事」