この文書には、1810年(文化7年)12月から翌年8月まで閏月(うるうづき)を含む9ヶ月(270日)の酢造りの経費が記されています。生産・販売に必要な酒粕・明樽・縄・樽口、給金・飯米(蔵働きの食用米)・樽屋手間の人件費、製造工程で必要となる薪や桶囲い用の菰・莚(こも・むしろ)など、117両余が計上されています。
江戸では伊坂市右衛門が、御蔵酒を各酒問屋に分配しました。販売された御蔵酒の代金の一部が、市ヶ谷勘定所に上納されました。 この文書は、御蔵酒政策を行うことを江戸酒問屋に伝えることを目的としています。中埜家文書には、御蔵酒に関する一連の文書があり、より詳しい内容を理解することができます。
招鶴亭文庫が所蔵する文書には、流通に関わる史料が多く残されています。中野又左衛門は船を所持しており、その船が製品の酒・酢やその原料である米や、桶樽などを輸送しました。船は中野又左衛門に直接関係しない荷物も運びました。 今回紹介する史料は、平坂(西尾市)の雑穀問屋である石川小右衛門から富士宮丸の船頭為吉に宛てた「売仕切」です。
中埜又左衛門家では、増倉屋三六の名前で酒造りを行っていました。江戸に大量の酒を販売し、江戸下り酒問屋との酒取引に関する史料が残されています。 ここに紹介する「三国一印売附覚」「三国一印仕切目録覚」もその一つであり、江戸下り酒問屋の尼屋甚四郎との酒取引の実態が明らかになります。
1875年(明治8年)3月、工部省から愛知県に対し、半田村の灯台建築について、疑問が出されました。その疑問とは仕様書や図面からでは西洋型か日本型かの判断がつかないことや光線の射程距離が明らかでないことでした。 この指摘に対して、中埜又左衛門に相談された中井半三郎からの返答が今回紹介する書状です。
1694年(元禄7年)半田村から、尾張藩の郡奉行である服部重郎兵衛に新田開発を願い出た文書です。場所は、現在の半田市役所が含まれる一帯です。願書には、2つの開発理由などが記されています。
1854年(嘉永7年)9月(同年11月に安政に改元)、中野又左衛門が下半田村の庄屋を引き継いだ時から作成されはじめた資料で、頭分(頭百姓)らが村の問題を話し合いや多数決を行い意思決定していた様子が記載されています。