一般財団法人 招鶴亭文庫

酢っごいキッズ
 
新着情報・お知らせ
■ WORKS 2020

■ WORKS 2019

■ WORKS 2017

■ WORKS 2016

■ WORKS 2014

 

■ WORKS 2013

 

WORKS 2012
2012:02/24 - 03/04
醸しの半島、知多


酒・ビール・酢・味醂・味噌・溜…
これらは知多半島や西三河南部で造られてきた醸造品です。この地域の醸造業の歴史は江戸時代に始まります。 それ以来現在にいたるまで、この地域は日本有数の醸造地帯を形づくっています。とくに多様な製品が生み出される点は、日本でも唯一ともいえるこの地域の特徴です。
今回は酒とビールに焦点をあてて、この醸造地帯発展のようすを古文書や、さまざまな歴史資料で紹介しました。 併せて、企画展の内容を特集した機関誌を発行し来場者の方々に配布しました。
なお、開催期間中、2300人余りの方々が来場されました。

企画展ポスター


■ WORKS 2011

 

■ WORKS 2010

 

■ WORKS 2009

半田文化史玉手箱 「醸しの半島、知多 其ノ壱・酒づくり 酒とビール」

知多半島・西三河の醸造業の特徴の一つは、より大きな市場を求めて販路を開拓した点にあります。18世紀初頭には人口100万を超す世界最大の都市に発展した江戸に、積極的に醸造品を売り込み、成功を収めてきたのです。江戸への売り込みを可能にしたのは、古くから発展してきた廻船の輸送力でした。

とくに、酒は江戸時代以前からの産地である伊丹(兵庫県)や新興の灘・西宮(以上、兵庫県)などの上方の酒が江戸市場で圧倒的なシェアを誇っていました。しかし、品質を向上させるとともに、上方より江戸に近いという地理的条件を活かして、江戸市場の動向に素早く対応することで、江戸での地位を獲得しました。

江戸時代に発展した醸造業は、地域も変容させました。醸造業に必要な道具や労働力を供給するシステムができ、酒造業で培った資本・技術から新しい醸造業も誕生しました。


▲ ビール片手に記念撮影

江戸時代の海運業

酒は、幕府や尾張藩の統制が厳しい醸造品でした。それは酒の原料が米だからです。幕府は酒造を許可制とし、酒造株を発行しました。酒造株には、酒造高ではなく酒造米高が記されており、酒造家は認められた酒造米高以上の米を使用することはできませんでした。米不足の際には、幕府は酒造りに使う米の量を制限しました。幕府は、酒そのものではなく、米価や米の流通の一環として酒を考えていたことがよくわかります。

18世紀後半の天明の飢饉の際、幕府は全国に酒造制限令を発令しました。しかし、尾張では比較的飢饉の影響が少なく、御三家である尾張藩の威光もあって統制が緩かったようです。他の地域で酒造りが十分に行うことができなかった時期に、半田・亀崎(半田市)に酒造業が大きく展開し、江戸に販路を拡大しました。この地域の船運が発達していたことに加え、舌の肥えた江戸の人々が喜ぶおいしい酒を造ることができたことが原因でした。

18世紀後半から19世紀前半にかけて、知多の酒は飛躍的な成長を遂げました。しかし、その勢いも長くは続きませんでした。1810年(文化7年)、江戸で酒の価格が暴落しました。江戸には100万樽を超す酒が集まり、供給過多になっていました。灘(兵庫県)の酒より味の劣る知多の酒は、とくに大きな影響を受けました。知多や三河の酒造家たちは亀崎の海潮院に集まり、その対策を話し合いましたが、良い意見が出るわけでもなく、多くの酒造家が廃業に追い込まれました。


▲ 「酒屋参会趣意覚」1809年(文化6年)

それでも残った酒造家たちは、灘の酒の味に近づけるために技術改良に力を注ぎ、苦心の末、1830年代後半に灘の酒の味に近い酒が完成したといわれています。酒は米と水を原料とした醸造品です。おそらく酒母の働きを活発にさせるために仕込みを数回に分けて行う「段仕込」の技術を取り入れたのでしょう。酒造米高は変わらなくても、「段仕込」により原料の水を多くしても十分発酵した味わいのある酒を造ることができ、酒の生産量が増加したものと思われます。

それ以降、知多酒は巻き返し、江戸に大量の酒を送ることができました。酒の味が灘に近づいただけでなく、灘が職人や水主たちの給金などの問題を抱え、停滞していたことも知多酒躍進の背景の一つでした。

半田・亀崎を中心とした酒造地帯は、地域全体で酒造りを支えたことによって成立しました。酒造業には桶・樽や銘柄を付ける菰印や焼印など、周辺の道具を作る働き手の存在が欠かせません。また、知多酒が低迷した時代には、酢や味噌を造りはじめた酒造家もいます。酒桶を酢・味噌造りに転用したり、酒粕からの酢造りの挑戦も、酒造業という基礎があったからこそ可能だったのです。


▲ 領収書(土佐大桶3本代金)

酒づくりの近代

知多半島の酒の最盛期は、幕末から明治初年にかけてです。1872年(明治5年)大蔵省発行の清酒造鑑札を買い求めた知多郡の酒造家は、216名でした。多くの酒造家たちは地域ごとに酒造組合を立ち上げ、地域産業の活性化を図りました。半田には佳醸組、亀崎(半田市)には名醸組、横須賀(東海市)には美醸組、古場・小鈴谷(常滑市)には醇醸組、内海・大井(南知多町)には芳醸組が結成されました。

明治政府は富国強兵をスローガンに新しい国づくりに着手しました。地租改正を行うことでの税収を増やす予定でしたが、農民たちの抵抗があり、政府の思惑通りには進みませんでした。少しでも国税を増やそうと、政府は酒に目をつけました。


▲1886年(明治19年)の「当座帳」に記された「招鶴」印の酒

江戸時代には、酒造の許可を与える時に税の一種である酒運上を上納させました。明治政府は、それに加えて酒税を導入し、酒の生産量に応じた課税を行いました。当時の酒税とは、現在のように消費者が負担するのではなく、酒造家が負担する酒造税でした。のちに酒税のみとなりました。1878年(明治11年)の酒の生産量1石当たりの酒税は1円でしたが、1882年(明治15年)には4円になりました。わずか4年で4倍です。政府は税収不足の解決を酒税の増税に求めました。

日本最大の酒造地帯である灘・西宮(以上、兵庫県)でも増税の影響を受けましたが、幕末から人員削減などの経営合理化を進めていました。一方、知多の酒造家たちは、灘が停滞している時期に拡張路線を取ってきたため、その影響は大きく知多郡の酒造高は12万石から6万石に、酒造家は126名に激減しました。

知多酒の挽回を図るため、1883年(明治16年)、亀崎の酒造家の酒倉に醸造試験用の施設を設け、宇都宮三郎を招きました。宇都宮三郎は、名古屋の尾張藩士の家に生まれ、西洋砲術を学び、明治政府では工部省技官をつとめた化学技術者でした。

1884年(明治17年)、地域ごとに結成されていた酒造組合5組は豊醸組(半田酒造協同組合の前身)に統一され、ピーク時の約4割の98名の酒造家でスタートを切りました。亀崎での宇都宮三郎の研究も軌道に乗りはじめました。発酵の実験を繰り返すなかで、「もろみ」を活かすことで酒の腐敗を少なくする新たな醸造法を生み出しました。宇都宮三郎の亀崎での研究は『醸酒新論』(交詢社、1894年刊)に結実しました。化学に基づいた醸造法の研究書がほとんどなかった時代、この本は醸造家のバイブルとして全国に広まりました。

1907年(明治40年)ごろ、豊醸組の醸造試験所が古場に設置されました。ここでの研究は、宇都宮三郎の研究をさらに進め、酒の腐敗を防ぐ酒母づくりに成功しました。 化学の力で知多酒を進化させ、灘に打ち勝とうとする知多酒造家たちの心意気は健在でした。


▲ 尾張国内海中野出蔵製清酒
「男山」ラベル

新たな時代の酒  ビール

日本国内で初めてビールが造られたのは、明治初年横浜の居留地においてといわれています。その後、1876年(明治9年)国家プロジェクトとして北海道に開拓使麦酒醸造所が設立されるとともに、民間でも新たな醸造業としてビール醸造業への参入が相次ぎました。その勢いはめざましく、1886年(明治19年)には、ビールの国内生産量は輸入量を上回るようになりました。

知多半島や西三河でも、同じようにビール醸造家が生まれました。小鈴谷(常滑市)で「三ツ星麦酒」、鷲塚(碧南市)で「鷲麦酒」などが造られたことが知られていますが、その実態はあまりわかっていません。

資料で確認できるこの地域の本格的なビール造りのさきがけは、竹本久三郎が手がけた半田ビールです。1884年(明治17年)創業といわれています。元来、竹本久三郎は酒造業を営み、「大宝」「秀よし」などの銘柄の酒を造っていました。竹本久三郎がビール醸造を始めた経緯は不明ですが、創業の年には東京の酒問屋からビールの注文を受けています。その後も数ダース、数十箱という単位で注文が入っています。イギリスから見本のビールを取り寄せようとしていることから、イギリス風のビール醸造を目指していたのかもしれません。半田ビールには樽詰めとビン詰めがあり、東京の取引相手からは味が薄いとのクレームもありました。新規の取引相手と交わす約定書も作成されていたようで、半田ビールは試作品の域に留まらず、東京市場をねらう商品として醸造されていたと思われます。

半田ビールに続くビールは、中埜又左衛門や盛田善平が中心となり醸造した丸三ビールです。盛田善平の調査や中国人技師韓金海の招聘などさまざまな苦心の末、1889年(明治22年)発売開始にこぎつけました。人目を引く宣伝で人気を博し、1896年(明治29年)には株式会社化して事業の拡大をはかりました。その翌々年には妻木頼黄の設計によるレンガ造りの工場を完成させ、本格的なドイツビールの醸造を始め、「カブトビール」の銘柄で売り出しました。当時の全国シェアは4%程度でした。その後、丸三麦酒株式会社は根津嘉一郎に買収され、工場と銘柄だけが引き継がれました。

1910年代になると、各ビール会社の販売促進活動や人々の生活スタイルの変化にともない、ビールを飲む機会は飛躍的に増加しました。都会ではカフェやビヤホールでビールを楽しみました。大都市でなくても旅館や料亭などでビールが提供され、店頭にビールの銘柄を記した看板を掲げる飲食店も誕生しました。実際、カブトビールの販売先も東京や名古屋だけではなく知多半島全域や三河南部に拡大しています。もちろん、冷蔵庫のなかった時代、氷を入れてビールを飲む、といった光景も見られました。

▲ 「半田ビール」ラベル

▲ 商標改正記念  カブトビール
特売チラシ1918年(大正7年)

▲ 知多日報広告
1903年(明治36年) 10月2日